ここでは弘前大学附属図書館貴重資料「御郡内惣図」のデジタル版を掲載しています。高解像度画像を拡大表示し、細部までご覧いただけます。
【概 要】
「御郡内惣図」(以下、「惣図」と略記)は、弘前市の郷土史研究家・故小野慎吉氏(1888-1963)の蔵書で、昭和40年(1965)1月、同家から弘前大学附属図書館へ寄贈され、小野文庫と命名された資料群に収蔵されている。同文庫は、郷土史関係の図書・古文書類等から構成されており、現在、附属図書館の貴重書に指定されている。
附属図書館への受入れに際して受入目録は作成されたが、その後、図書類は本館所蔵図書として文庫本体から分離・配架されたため、受入目録自体が機能しなくなったことから、現在、資料の再整理と新目録の作成中である。同文庫所収の史資料は膨大で、資料目録の脱稿には、いまだ日時を要することから、同文庫の中で、特に学界に裨益するのではないかと考えられる資料を、できる限り早急にデジタルアーカイブスを通じて提供しようとの認識にいたり、附属図書館と協議の上、このたび、本アーカイブスに登載することにした。
〔「惣図」の書誌的な概要〕
「惣図」は、紙本著色の津軽領内を描いた絵図で、小野文庫の旧受入番号は29879(新番号は639)。法量は、縦(南北)159㎝×横(東西)164㎝。1鋪。袋有。
彩色は鮮明であり、図上端の小さな汚れを除けば保存状態は良好。「惣図」自体は反古紙を重ね貼りした頑丈な和紙の袋に収納されてきたことから、良好な保存状態が長期にわたって継続してきたと推定される。
表題は、同絵図を収納する上述の袋の表書きに「御郡内惣図」と記されており、絵図本体には資料名の記述はない。いつの時点で資料名が付されたか不明だが(恐らく、元所有者の小野慎吉氏が文庫を整理する段階で付したものと想定される)、図中の各種情報や同系統の絵図等から類推すると、当該の表題に特に異論を差し挟む必要はないと考えられる。したがって、当アーカイブスにおいては新たな資料名を付さず、従来の資料名を尊重して「御郡内惣図」とした。
〔「惣図」の内容について〕
「惣図」は、近世後期の津軽領全域を描いた領内絵図である(図の年代考証に関しては後述)。領域の形態は、正保2年(1645)の「陸奥国津軽郡之絵図」(青森県立郷土館蔵)・「津軽領元禄国絵図写」(弘前大学附属図書館蔵)、17世紀末から18世紀初頭を描いた「津軽国図」(弘前市立博物館蔵)、それ以降の領内絵図、代表的なものとして「陸奥国津軽領大図」(弘前市立弘前図書館蔵)の特徴と一致し、津軽半島と十三湖が実際よりもデフォルメして描かれている。黒石領は特に色分けなどがされることなく、弘前藩・黒石津軽家領(のち黒石藩領)による区分がなされず、津軽領は一体として把握され、領内の各村は「平賀庄」(赤色)「鼻和庄」(藍色)「田舎庄」(黄色)の三庄に色分けされている。
図中央を岩木川が北流して十三湖に注ぐ様子は各国絵図や「津軽国図」と同様であるが、領内山中には樹木等の植生を意識した描写は特になされておらず、その点は相違している。
各村は、小判型の形の中に村名のみが記され、国絵図のように村高の記載はなく、村落間を街道(朱線)が結んでいる。主要な街道には、道路を挟んで2つの黒点を付して一里塚を示す。図中の村数は、正保・元禄の両国絵図と比較して多いものの天保国絵図のそれにはとうてい及ばず、村数からしても天保国絵図以前の絵図であって、作成が19世紀前半を降ることはないことを示していよう。さらには文化5年(1808)、高直りと称される、弘前藩が一〇万石に昇格する以前の領内の様子を描いていると推定される。
秋田・南部両境の境目の目印となるような主要な山岳には、津軽領側の山名とともに各藩領での呼称を記しており、藩境に関しては描写も記述も詳しい。加えて、海岸線と磯名は詳細だが、台場の記載が見当たらず、未だ海防の危機が迫っていないことを示していよう。
なお、青森や鰺ヶ沢、深浦等の主要な湊には航路が簡略に書かれており、正保国絵図にならった描法を採用しているようだ(元禄国絵図には航路は描かれていない)。
同図を一覧して目につくのは、十三湖である。「惣図」には、潟名もなく十三湖に関する記述は一切ない。十三湖出口付近の十三に2本の航路と「鰺ヶ沢へ五里」「小泊へ三里」の記述があるのみで、両国絵図や「陸奥国津軽領大図」に見えるような、湊口が浅くて荷物の積み替えを余儀なくされる状況などを記した文章や「十三潟」のサイズ(長さと横の距離)は省略されている。
「惣図」にあっては、十三湖と日本海が旧来の水路ではなく、双方が直接結ばれているように見え、さらに十三湖の南の方に「古潟」が描かれているのが特徴と言えよう。十三湖から日本海への旧水路が塞がれて、「古潟」として残存した状況を描いていると思われる。周知のように十三湖と日本海を結ぶ水戸口は、強い西風と砂で絶えず移動し、海水が逆流して岩木川流域が塩害を被り改修工事が藩政時代にたびたび実施された。このような中、「津軽編覧日記」(弘前市立弘前図書館蔵)明和元年(1764)2月28日条に「一夜之内十三潟海之方へ突きぬける」と見え、18世紀後半に日本海と十三湖が旧来の水路を経ないで直結したと記録している。この件を立証する資料は他に見当たらないが、当該時期に「惣図」に見られる景観が現出しつつあったことは間違いないようである。
享和2年(1802)6月~10月にかけて実施された伊能忠敬の第3次測量の結果を反映して作成された「伊能大図」(渡辺一郎監修『伊能図大全 第1巻 伊能大図 北海道・東北』河出書房新社 2013年)には、現在のように十三湖と日本海が直結し、かつ古潟が描かれており、19世紀初頭には「惣図」に描かれた状況が伊能図において確認される。このようにみるならば、「惣図」の十三湖は、正保国絵図に描かれた中世以来の、さらには17世紀以来国絵図や領内絵図に記録された近世十三湊の機能を喪失しつつある姿を描いたともいえよう。
年代推定をさらに進めよう。「惣図」は、上記のように年代を明確に特定できる材料に乏しく、残念ながら現時点で何年頃の絵図であると言明するのは困難である。同図中の、新田地帯である岩木川下流、十三湖付近の村落を子細に観察すると、『みちのく叢書 津軽歴代記類 下』(国書刊行会 1983年)の文政6年(1823)3月7日条に見える、享和初年(1801)から文政年中(1810~20年代)に開村した28カ村の村名一覧(同書83ベージ)が注目される。弘前藩第9代藩主津軽寧親の推進した領内新田開発が一定の成果を収め、このときに功のあった家臣を褒賞した記事の一環で、その中に広須組の下繁田村、下牛潟村、下富萢村、下車力村、家調派等が掲載されている。「惣図」には上記の村々が一切描かれていないので、それ以前の村落状況を示したものと見てよかろう。したがって、『津軽歴代記類』にみえる新田地帯の村落開村状況や、さらには十三湖南の古潟の形成と水戸口の状況を踏まえるならば、「惣図」は18世紀後半の津軽領内を描いたものとみなしたい。
最後に国絵図等には見られない、「惣図」から得られる興味深い情報を掲げることにしよう。
絵図中には宗教施設が比較的多く描かれ、なかでも観音堂に関する表記が多い。代表的なものは、堂宮と周囲の樹木景観(広葉樹、針葉樹など社周辺の景観まで詳細に描いている箇所もある)もあわせて描かれており、十腰内観音、久渡寺、見入山観音、深浦の円覚寺、梵珠山の松倉観音、入内観音など、津軽三十三観音霊場のなかでも代表的な霊場である。他にも、三十三霊場にカウントされない「観音」については、鳥居+名称の堂社と、鳥居のみが書かれているものなど多様である。観音堂の他に権現、不動尊、雷電宮、妙見宮の描写もあり、当時の領内所在の宗教・信仰施設に関して、文献資料とは異なる視点からのアプローチが可能であろう。
このほか、領内各地には「出湯」の地点が多数見受けられ、領内最大の鉱山であった尾太は、「尾太銅山」として表記されている。平尾魯仙の「暗門山水観」にも紹介されている目屋渓谷の乳穂の滝、鷹巣の絶壁景観の描写もあり、領内の各種資源を図中に網羅しようとしたとも考えられる。
以上、本絵図の概要を記述してきたが、「惣図」は、本学附属図書館としては2011年に「津軽領元禄国絵図写」をデジタルアーカイブスに登載して以来の絵図資料である。今後、デジタル化された「惣図」が広く活用されることによって、絵図研究だけでなく弘前藩研究や日本近世史研究の進展に大いに寄与することが期待される。
(弘前大学名誉教授・元附属図書館長 長谷川 成一)
(付記)「御郡内惣図」の調査に当たっては、本学大学院人文社会科学研究科の院生諸君の篤い協力を得た。加えて当概要を執筆するに当たっては、弘前大学教育学部の瀧本壽史教授と人文社会科学部の武井紀子准教授から助言を得た。