加藤謙一文庫 概要
加藤謙一は,本学の前身の一つである青森県師範学校の卒業生で,戦前・戦後を通じて「少年の健全育成」を目的とした少年向け雑誌の編集に一生を捧げ,また,戦後を代表する多くの著名な漫画家を育て,今日の漫画文化の礎を築きました。
この文庫は,彼が関わってきた「少年倶楽部」「野球少年」「漫画少年」の原本又は復刻版と手塚治虫,寺田ヒロオ,石ノ森章太郎など彼が育てた著名な漫画家の関連資料からなる416冊の文庫です。1920年代から1950年代にかけての少年雑誌の変遷を俯瞰する上でも貴重な資料です。 資料の多くは,加藤謙一氏の四男の加藤丈夫氏の寄贈によるものです。(2010年9月7日設置)
2015~16年,加藤謙一の教え子より寄贈された資料を追加しました。
加藤 謙一(かとう けんいち)氏 【1896-1975】
1896年(明治29年)青森県弘前市生まれ。
青森県立弘前中学校(現県立弘前高等学校)を経て1916年(大正5年)青森県師範学校(現弘前大学教育学部)に入学。1917年(大正6年)に同校を卒業し,市内の富田尋常小学校(現弘前市立大成小学校)に奉職した。在職中に作った学級誌「なかよし」を生徒たちが喜ぶのを見て「この喜びを全国の子どもたちに広めたい」との思いが強まり,職を辞して上京。1921年(大正10年)に講談社に入社,『現代』編集部に入る。翌年『少年倶楽部』の編集長に抜擢され,次々と新機軸を出して『少年倶楽部』の発行部数をのばす。新聞小説の雄・佐藤紅緑に依頼し,「あゝ玉杯に花うけて」を連載,ほか「少年讃歌」など7編の大作を書かせた。また,吉川英治,大佛次郎などの小説や田河水泡の漫画など各方面の作家を動員し「少年倶楽部」を45万部発行の雑誌に発展させた。更には,漫画・挿絵・付録と愛読者の心をつかみ,1932年(昭和7年)まで編集長として「少年倶楽部」を支えた。
その後,『講談社の絵本』の編集長に転じ,1945年(昭和20年),講談社取締役に就任したが,太平洋戦争の終結に伴い退社。
戦後は雑誌『「野球少年』の企画に携わった後,1948年(昭和23年),自ら学童社を興し,雑誌『漫画少年』を創刊した。同誌において,新人の発掘と育成に力を入れ,手塚治虫をはじめ,寺田ヒロオ,藤子不二雄,赤塚不二夫,石ノ森章太郎,松本零士など日本を代表する漫画家たちを世に送り出した。
記念碑「なかよし」
加藤謙一は,編集者として多くの作家や画家,漫画家を育てたが,活動の原点は富田小学校の学級誌「なかよし」であった。
1917年(大正6年),弘前市内の富田尋常小学校の教員に採用され,3年生の担任となった謙一は,自らの経験を活かし,特に,国語の教育に力を入れたが,普通の教科書では,物足りないと市販の雑誌を買ってそれを副読本に使った。きれいな絵や面白い話が載っているのになぜか子どもたちは喜ばない。よくよく見ると,その本に載っているのはみんな都会の話ばかりで弘前の子どもたちの感覚に合わない内容だった。「それなら自分で本を作って子どもたちに読ませてやろう」そう思いたった謙一は,自分でガリ版を切り,子どもたちの作品や自分が作った童話や物語を加え『なかよし』というクラス雑誌を作った。もちろん粗末な雑誌であったが,これが市販の雑誌より子どもたちに喜ばれた。やがて,「こんなに子どもたちが喜ぶのならこれを一学級のものに留めないで全国の子どもたちの喜びに拡大できないか」という夢がふくらむ。その夢は,児童向け雑誌の出版へとつながって行った。
富田尋常小学校に1年半勤務した後,1918年(大正7年),地元で教員を続けることを切望する両親を説得し,謙一は一大決心の末に教員を退職し,青雲の志を抱いて東京へと旅立った。
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・『漫画少年』(オリジナル版)
・『野球少年』(オリジナル版)
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